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粉川教授が大輔さんの舞踏について語った記事を再掲載します。

  死体が美しいなどとは言わせない。眼窩が引っ込み、穴々からは漿液をにじませ、蝋細工の人形のように硬直した死体。そこには美しさなどどこにもない。
 しかし、もし死体が蘇る瞬間をこの目にすることが出来るとしたら、それほど美しいものはないだろう。腐敗を待つしかない凝固した白っぽい皮膚に赤みがさし、焼かれることを待っていた虚ろな眼球に焦点が戻り、やがて身体全体が動き出す。
 吉本大輔の舞踏パフォーマンスのスリルと醍醐味は、まさにこのような現実には限られた者と限られた瞬間にしか経験不可能なプロセスをめに目のたりにできることである。
 この舞踏のなかでのみ、死体は美しいと言うことが出来るし、死体が歌い、笑い、エロティックであることが出来るのだ。
 かつて吉本は、カフカの『変身』を演じたことがあるが、このプロセスは変身というよりも、創造とイニシエーションであり、それ自体は無にほかならない物体に魂を吹き込むプロセスである。
 舞踏には、基本的にこうしたプロセスとテーマがあるが、吉本の舞踏パフォーマンスは、土方巽以来、の『伝統的』な舞踏とも異なり、ある点ではそれを超えている。
 舞踏には、笑いがない。が、吉本には笑いがある。ただし、その笑いは、まさにカフカが『オドラデクの笑い』という短編のなかで描いたような『肺なしの笑い』であり、この世でもっとも楽天的な肺全体摘出手術を受けた患者の笑い、いやもともと肺のないアンドロイドの未来的笑いである。
 吉本は、どうしてあのような身体を作ることが出来るのだろう?『金をかけていますからね』とあるとき、わたしの問いに応えて彼が言った。わたしは、一瞬、彼がヘルスクラブや今で言うエステのようなところに通っているのかと思ったが、そうではなかった。吉本によれば、それは、「働かない」ということなのだった。それならば、わたしも「金をかけている」はずだが、それが身体の修練のためではない点が吉本とわたしの違いなのだろう。

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