朝鮮半島の仁川で生まれたひとりの少女が世の荒波にもまれた末に日本に来て日本人と結ばれ、さらに吉本大輔と出会って舞踏を知り、舞踏をはじめた。吉本大輔の弟子として稽古を重ねてきて、そしていま、舞台に立つまでになった。この間に、図らずも神さまから男児を授かり、母ともなっている。それでも、舞台に立つという意志は貫いてきた。
おそらくは逡巡や動揺がなかったわけではあるまいに、舞踏への決意は試練に遭って、そのたびに強くなってきたようである。
徐承我に私がはじめて会ったのは、イタリアのトリノだった。吉本大輔の海外公演に同行して裏方を務めていたのだ。初印象の鮮烈な記憶として、いまだに忘れられないのは、まるで嬰児のような真っ白な目、真っ黒の瞳だった。起居振舞もキビキビしていて、行き届いた気遣いもできる人だった。
舞踏を見て感動し、みずからも舞踏家を志す外国人は少なくない。だが、けっして多いとはいえないが、何人か外国人の「舞踏」を観た経験からすると、外国人に舞踏は無理ではないかという抜きがたい偏見が私にはある。まるで別物になってしまうからだ。残酷なことではあるが、いかに稽古を重ね意匠を凝らして舞台に立とうとも、そこに一筋の天啓が訪れてこなければ、舞踏とはなりえない。舞踏はひとり舞踏家だけが為しうるものではないと私は信じている。百千の修練の果てに、気まぐれに訪れる天恵がなければ、そこにあるのは酷使された痛々しい舞踏家の肉体の苦痛だけである。そして観客にとっても、舞踏を目撃することは往々にして肉体的な苦痛である、もしそこに天恵に導かれて生まれる感動がないとしたら……。その一筋の天啓は、日本人の肉体にしか訪れてはこないのではないかと私は思っている。均整とは程遠い日本人の屈折した肉体がひとつの美となりうることを証明してくれたのは舞踏であるが、その美は肉体的であるとともに、精神的であり、むしろ霊的といった方が相応しいような何かなのである。それを外国人に理解しろと言う方が無理というものだろう。
名取舞花という吉本大輔のもうひとりの弟子は、その処女公演『肉体の形而上学』で、舞踏の肉体の美を輝かせてみせた。残念ながら、その美しい肉体に訪れかけた天啓を、その手に受けとりじっくりと暖めて捏ね回し、天恵として観客に贈って感動を生むまでにはいたらなかったように思うが、そこに現出されたのは、まぎれもなく舞踏の美であった。吉本大輔の教えと意匠に護られながら、舞花自身の美しい形が不用意にもこぼれ落ちて、そこにはあったのである。
徐承我の処女公演に際して、光栄にも師・吉本大輔の依頼によって私が捧げた題名は、その舞踏に天啓の訪れんことを切に祈る親心のような気持ちから命名したもの。もともとは、小説『沙中の回廊』の中にちりばめられた宮城谷昌光の珠玉の言葉のひとつである。雲ひとつない一面の青空に、雨の滴などありようはずはない。そこにしずくを結び、雨を呼ぶのは、人間の祈りにも似た意志であり志であろう。まして赤い花を開かせるには、なまなかの志では叶うまい。
徐承我は彼我を隔てる海峡をいとも易々と超えてきた。その前半生に舐めなければならなかった辛酸に比べれば、物の数ではなかったのである。結婚して子まで為しながら難病を患うと離婚を言いわたされたことは世間にもままあるが、親友に裏切られて誘拐されるという経験はザラにあることではない。死を幾度も覚悟した仁川の少女に海峡を越え日本まで招き寄せたものは、舞踏だったのであろうか。
中野の小劇場で行なわれた徐承我の初めての舞台は、その無垢なる可憐さが見事に芽を出しかけた佳品となった。時を隔てながら二人までも子を為した女性に純白の無垢を感じることは稀有のことであるが、徐承我の踊りにはいたいけな嬰児のような可愛さがあった。渾身の修練を尽くすその天稟に、天はどのような恵を垂れるのだろうか。場合によっては、舞踏に対するわたしの年来の先入見を改めなければならないかもしれない。徐承我のため、私は期待に満ちた覚悟を固めているところである。