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ちょっと早いのですがポーランド公演に先立ちポーランドにおける
大輔さんの評価を見てみました。

1995年度スイス、ハンガリー、ポーランド、国際交流基金
吉本大輔舞踏公演ポーランド新聞批評(翻訳:岩田美保)
「驚異の舞踏家」10/23Gazcta Robotnicza 紙
(グロトフスキー演劇研究所2公演3日間ワークショップ)

 日本の舞踏家吉本大輔は、何年かに一度の事件となった。マルセル・マルソーの公演同様に我々はこの公演を記憶し、また思い起こすだろう。この二人の名前はたまたま並べてみたものではない。二人の芸術家を分つものは多い。文化のルーツ、美学、形式。一方結び付けるものは、確かに方法こそ異なるが二人ともが自分の肉体という同じ楽器を用いた名演奏家であることである。マルソーがこの分野でヨーロッパの伝統的な身振りの芸術の革新家だとすれば、吉本大輔は日本の伝統において創造的反抗者なのである。私は彼の作品をかつてのグロトフスキー演劇研究所のホールで見ながら、1960年代の若者の世界的な演劇ヘレニズムと繋がる何か秘められた糸が存在する印象を払うことが出来なかった。吉本大輔がその舞台の終盤、独自のエクスタシーの中、驚くべきエネルギーをもって爆発したとき、私は目にしたものを名付けようとしてすぐ言葉を思いつくが出来なかった、「肉体の真実と誇り」である。後になって、これはグロトフスキーが彼の探求による一つの見解を示すのに使った言葉であったのを思い出した。ポーランドの観客にはインスピレーションを起こさせない、が作品が物語的性格を持ち合わせていないのに、それが何であろう。ありきたりに「お話する」のは容易なことではない。舞踏家は空想的な、とにかくこの世のものとは思われない装いで始めた。ゆっくりしたリズムと非常に精密な動きと身振りによる長いシーンは、上述の反抗と重々しいまとわりつく打掛けのごとき形式からの脱却を象徴しているのかもしれない。脱却は二段階になっている。その途中で多様な造形的、まさに「鳥らしき」、思わせ振りできれいだが少々空虚な形の遊びが現れる。が、飛び立つことは出来ないから、人工的な翼も何になるだろう。舞踏家は自己解放への道を、肉体的にも精神的にもほぼ文字どうり裸体に達するまで続ける。それはエネルギーの最大集中を可能にする独自の『浄め」を意味する。次に起こったのは空高い(舞踏家は地面からはなれないのだが)飛翔と思われた。まさに生来定められた限界と障害を越え得る肉体の閃きと詩である。彼は、もっとも鍛錬された身体にも苦行にに違わない体勢で取り分け苦もなくホールを行く。それを比べようもない正確さと(それも難しくて標準からかけ離れた)リズム感でするのだ。そして何かの陶酔にでも落ち込んだように床にぶっ倒れて転げ回り始める。壁を血まみれに打ち砕いてしまうのではと恐れさせるほどエネルギーを集中し動かす。が、実際には彼にそんな恐れはない。というのも肉体と意識が一つになり、自制が理の機能でなくなにか性体的なものとなって自発的段階にまで到達しているからである。
 吉本大輔の鍛錬と技術は称賛に値する。しかしながら私には、彼が到達したのは技術を越えたものであるように思われるのだ。技術は、空高く舞い上がる為に跳ねつけるトランポリンなのである。ここまでの印象はすべて主観である。日本人芸術家の公演をどう理解し受け止めたのかを書いたまでである。

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