揺れ動くもの、ズラすもの。真白な身体は、時にしなやかに、時に力強く、空間をただよい、絶えず分断の線を引く。それらはあらゆる意味が流れ出す切れ目、あるいは意味と化する前のうごめきである。そのうごめきの中には赫奕たる視線の跳梁があった。
その日、吉本大輔一座の舞台は路上であった。今年4月の野毛大道芸フェスティバルでのことである。友人Kから突然の誘いをうけ、なかばわけもわからぬまま私は桜木町へ向かったのだ。二人で昼食を終えた後、ゆるく傾斜した細い道をたどった先に、彼らはいた。頭からつま先まで白塗りの身体、衣服をほとんど身に付けないその姿は春たけなわの日曜の午後にはどう見てもそぐわない。
物悲しくもユーモラスな音楽が流れ、舞踏は始まる。舞台上には大きく3つの焦点が形成される。
一つは3人の女が踊る場所だ。長身の女の両脇を背の低い女二人が守るような格好は、さしづめ高貴な女性とそのお供の散策である。みな羽衣のように薄く真っ赤な衣装をまとい、両脇の二人は奇妙な柄の日傘を手にしている。3人はしずしずとした足取りで前へ進むのだが、緩慢な身体の動きを見ていると、まるで一ヶ所にとどまってただよっているかのようでもある。歩みを進めるたびに着物の裾が割れ、真白な素足が見える姿はなんとも妖艶だ。ゆっくりゆっくり春の柔らかい日差しの中、一行は進むとももなく進んでゆく。女たちは見ている。何を?わからない。ただ、虚ろな目で前方を見つめている。
もう一つは空也という人物だ。スキンヘッドの頭からつま先まで真白に塗り、ライダーのつけるようなゴーグルをかけた空也は、デジタルビデオカメラを手にしている。白褌一つの空也は、そのカメラで観客を撮る。右手側から左手側へと、空也の眼=無機質なカメラのレンズはゆっくりと観客を映し出してゆく。その無表情・無感動な「眼」は舞台へと向かうわれわれ観客の視線を「折り返す」。そして折り返された視線を受けたわれわれは「舞台を見ている」という事実を突きつけられギクリとする。日常、おもむろにカメラのレンズを向けられた時に感ずるあの「ギクリ」である。
概して、コンサートや観劇などにおけるわれわれの視線は固定的・一方向的なものではないだろうか?ライブコンサートにおけるコール&レスポンスや、歌舞伎で屋号をかける場面はあっても、われわれが舞台に向かって投げる視線は、無下にはね返されることはないだろう。視線のゴールは舞台上だ。多方向から投げかけられる視線は舞台上で収斂されるべきなのだ。それが観客にとっての望むべき状態である。けだし「観客」とは「観る・客」の謂いであって、「観られる・客」ではないのだから。しかしかの舞踏においては、舞台に投げかけられ、そこでとどまっているべき視線が、あたかも鏡面に反射した光のように折り返されて戻ってくる。つまりカメラの視線というのは、撮影者のものではないのだ。むしろその映像を見るであろうところの他者を、観念的にフンギし
た自分の視線、すなわち「見られている私を見ている私の視線」である。観れば観るほど私は観られる。この負の視線によって、単に視線の出発点、質量をもたぬ「点」でしかなかったわれわれの意識には、にわかに自らの身体の「重み」が表象される。途端に、心地よくたゆたっていたわれわれは、自分が重い身体をもっているという厳然たる事実に気付かされ、動揺する。姿の見えぬ、見知らぬ他者に自らの身体をさらす恐怖におそわれる。われわれがレンズと「眼を合わせる」時間はほんの一瞬であるけれども、われわれの意識に変調をきたすには十分な時間なのだ。一通り客を撮り終えた空也(カメラ)の眼は、舞台上の登場人物に向かう。そうかと思うとまた観客に向けられる。舞台と、観客との間を欲するままに行き来する。それが空也のパフォーマンスである。パフォーマンスをしながら撮る。撮りながらパフォーマンスする。彼はパフォーマーであるのか、観客であるのか、それとも別の何かであるのか?彼の立地点は観客と舞台との「あいだ」にあって、その視線は双方への侵入を繰り返し、とどまることなく遁走する。踊るのは独り身体だけではない。
最後の焦点は吉本大輔その人である。舞台の開始後、しばらく経つまで私の立っていた場所からは吉本の姿は見えなかった。それほど彼の開始点は低かった。足高をつけた吉本は胎児のように身体を丸め、丁度私のいた箇所と逆の場所から地面を転がり始めていた。
まるでギプスのような足高と褌ひとつで、吉本は、前記二者が展開する二つの世界の周縁を、迂回するかのようにゆっくりと転がってゆく。ごろり、ごろりと丸太のように。その姿はいかにもぎこちなく、異様である。この時点で彼は決して他のパフォーマー達と関わらない。動きを共にすることもなく、立ち位置を同じくすることもない。中州を回避する川のように進んでゆく。やがて舞台のちょうど反対側に来ると、彼は回転を止める。そして今度は一心に立ち上がろうとする。手に何も支えを持たぬ彼は、道端の道路標識や水道メーターの箱を引きむしるようにつかみ、細い足高で立とうとする。天から射す一筋の光明を見出した餓鬼が、必至でその光をつかもうともがく、というような体である。手足を震わせ、顔を歪ませながら、彼はその真白な身体を徐々に徐々に持ち上げる。力を込めるたびに、その口からはうめきにも似た声がもれる。
丸めていた体を次第に伸ばし、足高がおぼつかなげに前後によろめいたとき、彼はすっくと立ち上がる。一つの大儀を終えた彼は、満足げに舞台を見回す。地上間近を這っていた彼の視線はこんなにも高くなった。地を這うものから天より見下ろすものへのメタモルフォーゼ。劇的な視点の移動
長い白髪と顎鬚、そして顔の皺は彼が相当な老齢であるかのような印象を与える。しかし足高の上にすっくと立つ身体は筋骨たくましく、まるで青年のもつ多大なエネルギーを内から発散しているようだ。長い顎鬚を生やした顔は男性的であるが、長い髪、口にひいた紅は女性的な要素を感じさせる。そして全身真白に塗り、足高に乗った姿は異形のものの風情以外の何ものでもない。青年と老人とのあいだ、男と女とのあいだ、人間と物の怪とのあいだ。それら様々な「あいだ」、ある定義と別の定義との両方からからはみ出し、すべてであってすべてでない、それこそ吉田の演ずるものなのだ。境界をさまようもの、あいだを揺れ動くものが、足高(=揺れ動くもの!)に乗って動き始める。
吉本は舞台を、他の二つの世界を横断する。その細く長い足はほんの3、4歩で舞台の端から端までを闊歩する。女3人の脇を横切り、空也の視線をかわす。構築され、固定化されようとしてい3つの空間をその長い足で分断し、境界を破壊する。さっきまではまったく別の場面を描いていたトリプティク(3連画)には次第に同一の背景が見え始める。
裸の眼には残酷なまでの蒼天
喧騒と静謐が交わる場所
安寧の音色を遥か遠い記憶にする
見上げる力の強さ
見下ろす顔の尊大さ
乱反射した視線の先端
猥雑、美醜、緩急、波乱、困惑、
散漫、集中、中立、個別化、溶融、
苦悩、鈍痛、哄笑、疲労、快楽、
上昇、回転、反復、反復、反復、反復、反復・・・・・・
沈静・・・・・・正視静聴!
パフォーマンスは合一をもって終わる。まず女達が一人、また一人と一箇所に立ち止まり、はらばいになって体を重ねてゆく。次には空也がカメラを捨て、その次には吉本が、足高を脱いで重なってゆく。輻輳的であった舞台はもはや均質な単一的空間に変容しつつある。めまぐるしい視線の跳梁も、席捲的な身体の移動もなくなって、ただ微かにうごめく肉塊を残すのみだ。この肉塊の微動は、脱境界化の暴力的な運動が収束しつつあるときの余韻として始まり、新たな意味作用・意味構築を準備する胎動へと変わる。つくり、まもり、こわし、またつくること。これが吉本のパフォーマンスで展開されたことであり、またあらゆる表現形態の根底にひそむモティベーションである。
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